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小糸坂

 東から国道158号線で高山市街へ入ると、41号線との交差点の手前に緩い 坂道があります、これを小糸坂と言います。

この近くに、飛騨の里の入口手前から始まる山上への遊歩道を30分程歩き登 り切ると松倉城跡があります。この城は金森

長近が飛騨を治める前まで、飛騨を 支配していた三木氏の居城で、三木自綱が永禄年代(西暦1560年代)に構築 した典

型的な山城です。本丸、二の丸、三の丸、角矢倉、跡があります。ここか らの景観は、眼前に高山市街、そして遠くに北アル

プスを一望でき、すばらしい ものです。

 この城にまつわる「小糸坂」という伝説があります。以下「飛騨の伝説と民 謡」から転載しました。


春の夕方、道ばたには菫や蒲公英が綺麗に咲き乱れ、蝶はひらひらと花から花 へと飛んでいる。ぽかぽかする暖かい春日を受けて、丘の草原では優し

い一人の 娘が春菜を摘んでいた。年の頃は十二、三歳、手拭いを頭にかむり優しい声で歌 を歌いながら余念なく摘んでいる。日も西へ傾きかけた時、

一人の武士がきて娘 に声をかけた。

「あーそこの娘さん、たくさん摘めましたのう。おまえの歳はいくつかい」

「十二です」

「名は...」

「小糸といいます」

「小糸さん、私にその菜を売ってくださらないか」

「はい、それでは半分だけお分けいたしましょう。お持ちください」

「私の家は、此処から二,三町向こうだから私と一緒に持ってきてくれないか 。」

「はい、かしこまりました」

と武士の言うとおり娘は素直について行った。

その後、娘の姿を、見かける人はありませんでした。

 それからしばらくして、東の空がほのぼのと明ける頃、一人の娘が、牢の中 から引き出され、白絹のに目隠しの姿で駕籠に乗せられ大勢の武士に護ら

れ、城 の天守台の地固め工事しているところへ連れて行かれ、かねて用意された穴へ送 られ、天守台の人柱として、地中深く埋められてしまいました。

この娘が小糸で あったことは、言うまでもありません。

やがて天守の工事が進んで、大空に天守を仰ぐ日が来た頃、「小糸よう小糸よ う。小糸を返せ。泥棒、泥棒おれの娘を盗んだ奴は泥棒じゃ小糸を返せ.

こ この殿様は泥棒じゃ」と城門に走りわめきたてている、目をつり上げ、すごい形 相の、一人の狂女がいました。哀れ、この狂女は、このことを知った小

糸の母で した。しばらくして小糸の母も、姿を見ることができなかったそうです。

そして村人は小糸の薄命と母の末路を哀れんで、小糸の家があった、この坂道 を小糸坂と呼ぶようになったそうです。



細江歌塚

飛騨市古川町の杉崎に細江歌塚という史跡があり、そこに歌碑があります。

故郷にのこる心は心にて みはなほひなの身をなげくかな 基綱   

雲をわけ濁りを出でしこころもや おなじ蓮の露の月影  済継  

室町時代初期1330年代?、飛騨の国司として姉小路家綱が任ぜられてから 、北の江馬氏、南の三木氏との下克上の争いの渦に入って(三木自綱が

飛騨平定 するが、やがて金森長近に討ち滅ぼされる)いくまで、姉小路家が古川盆地を拠 点に栄えた言われています。 姉小路家は、京極高員が足利

義持の命で近江から 飛騨へ攻め入り、滅ぼしたと言われていますが、史料が不確実ではっきりしたこ とは判っていないそうです。 姉小路家は文学に秀

でた人が多く、基綱、済継、 済俊は、和歌を得意し、基綱は宮中の歌会に出る機会もあり、多くの歌を残した と言われています。

まさに、飛騨における、文学の原点はこの歌塚にあります。

引用文献 飛騨古川町史