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飛騨を題材にした著書

下々の女   作者 江夏 美好

飛騨は、大化の改新に下国と定められ、その国々の中でも最下等で下々の 国と呼ばれた。「下々の女」は,

そんな飛騨の女の一生を描いています。 主人公は、白川郷平瀬部落のええしゅ(大家)の、おとんぼ(末っ子

)の 、びい(女児)で、合掌作りの大家族の家で生まれた。 一生住むなら合掌作りの家でと思うが、稗ぬか飯

が常食で、叔父、叔母は 分家も結婚も出来ない、そんな生活はみじめであり、おり(私)だけはと がんばって

きたが、やむなく高山にでて、結婚するが,亭主はのんびりや の上,貧しい鉱山暮らし、9人の子供を産み、

彼女の苦労は一通りでなく 、みじめな生活は変わらない。 晩年、白川郷に帰るが,長男は戦死、次男はよろ

け(硅肺)、孫一人残っ た。「おり(私)ほど、おぞい(みじめな)目にあう女は、たんと(多く )あらまい」と嘆く。

飛騨のかたりべ ぬい女物語   作者 小鷹 ふさ

第1部「飛騨のむかし語り」、第2部「飛騨ひろい話」、第3部「ぬい女 ぼんのう」、第4部「ぬい女昔噺」からな

る。 明治維新前後の歴史的事件等の社会批判から,庶民の生活、人情などが淡 々と語られ興味深い。  

あゝ 野麦峠    作者 山本 茂美

日本アルプスの中に野麦峠と呼ぶ峠道がある。 現金収入な少なかった明治という時代,ましてや山国の飛

騨では「口減ら し」に信州の製紙工場へ、娘達が糸ひきにでるのが習わしで,明治中頃に なると「口減らし」

から大規模な「糸引き稼ぎ」に変わっていったそうで す。明治から大正にかけて日本での輸出の大半は生糸

関係(絹織物,生糸 等)で、その中でも,信州、現在の長野県岡谷市周辺の製紙工場で、輸出 総量のおよ

そ50%に相当していたそうです。 そんな時代背景もあり、50人、100人と群をなして、この峠越えて, 信州

の製紙工場へ向かって行った女工達の悲哀とその歴 史が、綴られてい ます。



 初めて、見たる!小樽

 石川啄木

 新しき声のもはや響かずなった時、人はその中から法則なるものを択び出しいず。されば階級といい習慣と

いう、いっさいの社会的法則の形成せられたる時は、すなわち、その社会に、もはや新しき声の死んだ時、人

がいたずらに過去と現在とに心を残して、新しき未来を、わするるの時、保守と執着と老人とが夜の梟のごと

く跋扈して、いっさいの生命が、その新しき希望と活動とを、抑制せらるる時である。人性本然の向上的意力

が、かくのごとき休止の状態に陥ること、いよいよ深く、いよいよ動かすべからずなった時、人はこの社会を称

して文明の域に達したという。いち史家が、鉄のごとき断案を下して、「文明は保守的なり」といったのは、よく

這般の、いわゆる文明を冷評しつくして、ほとんど余地を残さぬ。

 予は、今ここに文明の意義と特質を論議せむとする者ではないが、もし叙上のごとき状態をもって真の文明

と称するものとすれば、すべての人の誇りとする、その「文明」なるものは、けっしてありがたいものではない。

人は誰しも自由を欲するものである。服従と自己抑制とは、時として人間の美徳であるけれども、人生を支配

すること、この自由に対する慾望ばかり強くして、大なるはない。歴史とは大人物の伝記のみとカーライルの

喝破した、言にいくぶんなりともその理を、みとむる者は、かの慾望の偉大なる権威とその壮厳なる勝利とを

否定し去ることはとうていできぬであろう。自由に対する慾望とは、啻に政治上または経済上の束縛から個人

の意志を解放せむとするばかりでなく、自己みずからの世界を自己みずからの力によって創造し、開拓し、支

配せんとする慾望である。われみずから我が王たらんとし、我がいっさいの能力を、われみずから使用せんと

する慾望である。人によりて強弱あり、大小はあるが、この慾望の最も熾んな者は、すなわち天才である。天

才とは畢竟創造力の意にほかならぬ。世界の歴史はようするに、この自主創造の猛烈な個人的慾望の、変

化極りなき消長を、語るものであるのだ。嘘と思うなら、かりにいっさいの天才英雄を、歴史の上から抹殺して

みよ。残るところは、ただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる、死骸のみではないか。

 自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに蛇蠍

のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。これ他なし、幾十年もしくは幾百年幾千年の因襲的法則をもって、

個人の権能を束縛する社会に対して、我と我が天地を造らんとする人は、勢いまず奮闘の態度を採り、侵略

の行動に出なければならぬ。四囲の抑制ようやく烈しきに、したがっては、ついにこれに反逆し、破壊するの

挙に出る。階級といい、習慣といい、社会道徳という、われが作れる縄に縛られ、われが作れる狭き獄室に

惰眠を貪る徒輩は、ここにおいて狼狽し、奮激し、あらん限りの手段をもって、血眼になって、われが勇敢なる

侵略者を迫害する。かくて人生は永劫の戦場である。個人が社会と戦い、青年が老人と戦い、進取と自由が

保守と執着に組みつき、新しき者が旧き者と鎬を削る。勝つ者は、青史の天に、星と化して、芳ばしき天才の

輝きが、万世に光被する。敗れて地に塗れた者は、尽きざる恨みを残して、長しなえに有情の人を泣かしめ

る。勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。

 ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸に燃した無数の風雲児》は、ひきいて無人

の境に入り、われみずからの新らしき歴史をわれみずからの力によって建設せんとする。植民的精神と新開

地的趣味とは、かくて驚くべき勢力を人生に植えつけている。

 見よ、ヨーロッパが暗黒時代の深き眠りから醒めて以来、幾十万の勇敢なる風雲児が、いかに男らしき遠

征を、アメリカ。アフリカ、豪州。およびわがアジアの大部分に向って試みたかを。また見よ、北の方なる、蝦

夷の島々、すなわちこの北海道が、いかにいくたの風雲児を内地から吸収して、今日あるに到ったかを。

 我が北海道は、じつに、我々日本人のために開かれた自由の国土である。劫初以来、人の足跡つかぬ白

雲落日の山、千古、斧入らぬ、蓊鬱の森林。広漠としてロシアの田園を偲ばしむる原野、魚族むらがって白く

泡立つ無限の海、あーこの大陸的な未開の天地は、いかに雄心勃々たる、天下の自由児を動かしたであろ

う。彼らは皆、その住み慣れた祖先墳墓の地を捨てて、勇ましくも津軽の海の、早潮を乗りきった。

 予も、また今年の五月の初め、飄然として、春まだ浅き北海の客となった一人である。年若く身は痩せて、

心のままに風と来り、風と去る漂遊の児であれば、もとより一攫千金を夢みてきたのではない。予は、ただこ

の北海の天地に充満する自由の空気を、呼吸せんがために、津軽の海を越えた。自由の空気、自由の空気

さえ吸えば、身はたとえ枯野の草に、犬のごとく寝るとしても、むなしなえに蒼く高くかぎりなく、自分においてい

ささかの遺憾もないのである。

 初めて杖を留めた、函館は、北海ののどといわれて、内地の人は函館を見ただけですでに北海道そのもの

を見てしまったように考えているが、内地に近いだけ、それだけほとんど内地的である。新開地の北海道で内

地的といえば、説明するまでもなく種々の死法則のようやく整頓されつつあることである。青柳町の百二十余

日、予はついに満足を感ずることができなかった。

 八月二十五日夜の大火は、、函館における自然の悪徳を残らず焼き払った天の火である。予は新たに建

てらるべき第二の函館のために祝福して、秋風とともに、焼跡を見捨てた。

 札幌に入って、予は初めて真の北海道趣味を、味あうことができた。日本一の原野の一角、木立の中の家

、疎らに幅広き街路に草はえて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく鷹揚でゆったりして、道をゆくに

も。内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。秋風が朝から晩まで吹いて、見るもの聞くもの皆おおい

なる田舎町の趣きがある。しめやかなる恋のたくさんありそうな都、詩人の住むべき都と思うて、予はかぎりな

く喜んだのであった。

 しかし札幌に、まだ一つ足らないものがある、それはほかでもない、生命の続く限りの男らしい活動である。

二週日にして、予は札幌を去った。札幌を去って、小樽に来た。小樽に来て、初めて真に新開地的な、真に

植民的精神の、あふるる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である。

 内地の大都会の人は、落し物でも、探すように、眼を、キョロつかせて、せせこましく歩く。焼け失せた函館

の人も、この卑しい根性を真似ていた。札幌の人はあたりの、大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり

静かにゆったりと歩く。小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。あ

たりの風物に、圧せるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。されば、小樽の人の歩くのは歩く

のでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は、最後の一機にやる。朝から

晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

 小樽の活動を数字的に説明して、他と比較することは、なかなか面倒である。かつ、今、予はそんな必要を

感じないのだから、手っ取り早く、ただ男らしい、活動の都府とだけ呼ぶ。この活動の都府の道路は、人もいう

ごとく日本一の悪道路である。善悪にかかわらず、日本一と名のつくのが、すでに男らしいことではないか。か

つ、他日この悪道路が改善せられて市街が整頓するとともに、他の不必要な整頓、階級とか習慣とかいう、

死法則まで整頓するのかと思えば、予は一年に十足二十足の下駄を、よけいに買わねばならぬとしても、未

来永劫、小樽の道路が、日本一であってもらいたい。

 北海道人、特に小樽人の特色は、何であるかと問われたなら、予は躊躇もなく答える。曰く、執着心のない

ことだと。執着心がないからして、都府としての公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、予は、この一

事、ならずんば、さらに他の一事。この地にてなし能わずんば、さらにかの地に行くというような、いわば天下

を家として、随所に青山あるを、信ずる北海人の気魄を、もろ手を挙げて讃美する者である。自由と活動と、

この二つさえあれば、べつに刺身や焼肴を注文しなくとも、飯は食えるのだ。

 予は、あくまでも風のごとき漂泊者である。天下の、流浪人である。小樽人とともに朝から晩まで突貫し、小

樽人とともに、根限りの活動をすることは、足の弱い予にとうてい出来ぬことである。予は、ただこの自由と活

動の小樽に来て、目に強烈な活動の海の色を見、耳に壮快なる活動の進行曲《マーチ》を聞いて、心のまま

に筆を動かせば満足なのである。世界貿易の中心点が、太平洋に移ってきて、かつて戈を交えた日露両国

の商業的関係が、日本海を斜めに、小樽対ウラジオの一線上に集中しきたらんとする時、予が、はからずも

、この小樽の人となって、日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは、予にとって何という理由なしにただ気

持がいいのである。




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